湾岸MIDNIGHT
全話無料公開ということで、読みました。すごかった! すごい作品だった!
クルマすきです。平成の日本のスポーツカーだいたい好き。GT-RならやっぱりR32! FDカッコいいよね! みたいな中学生だったので、本当に刺さりまくっていた。「10代の頃に出会ったものは一生引きずる」なんてことが作中で言われていたわけですが、まさにそうだと思う。
頭文字Dは(そういえば途中で読むの止まってたけど)読んでいた。じゃあなんでこっちは読んでなかったのかと言うと、単純に「絵がクドそうだなあ」という微妙なファーストインプレッションだけで止まっていたから。今思えばそんな自分を引き回してやりたいもんだけど、でも、今出会ったからこその刺さり方をしたとも言えそう。
どうしようもなくクルマの作品なんだけど、クルマに向き合うキャラクタたちのセリフ・振る舞いをそこから我が身に引きつけてしみじみとしていた。もう少し有り体に言えば自分の仕事への向き合い方とかそういうところに響いていく作品だった。これは、中学生とか高校生とかの自分にはなかっただろう心のリアクション。
首都高を300km/hで走る連中という、傍目にはイカれた人たちしか出てこない作品だけど、そのクルマとの向き合い方って、なんだかすごく、眩しい。場合によってはそれに(給料の)全てを突っ込む人も出てくる。そこまででなくても、どこか「突き抜けた」様子で、クルマに人生かけて向き合う人たちばかり出てくる。そして、そうして初めて見えてくる世界を知ってしまい、またその先へ……と動いていく。
クルマって機械の塊なんだけど、それを動かす人間は感性の塊なんすよね。各章(話のまとまりを勝手にそう読んでいます)、はじめはいかにもクルマの話をしていると思ったらだんだんそれに絡む人間の心模様の話になっていく。そうしたパターンの物語を読み進めていく中でふと、我が身を振り返るための鏡を置かれたような気分になる。しかも、大体がいい感じに気分が乗ってきたところで。
キャラクター、みんな「わかりたい」とか「わかってほしい」とか言うし、自分のわかってなさを反省したりしている。自分には特に最後の「わかってなさを反省する姿」がぐっときた。自分も仕事、「まあ、なんとかなってる」で流しているところがあるよナ……など。でも、もっとあるはずだよね。「わからなさ」の門を叩いて叩いて叩きまくって、そうして少しずつ門が開いて、そこで初めて見える景色ってあるよね。そしてその先にはまた別の門があって……という流れ自体も楽しみたいよね。という自分の欲求に向き合うことになった。
「人生にはある日突然に加速がつくように変わる時がある(…)だがその時に動けない人がたくさんいる 停滞した流れの時に自分を作っていなかったからだ(…)受け身の考え方 リアクションの生き方をする人にそれは多い」
「悪い流れ 乗れない流れのその裏に必ず新しい流れがある それを意識しそれを考えそして信じて 爪を研いでいるか だ」
(Series 96 メンバー)
この辺とか、もう、苦しかった。あまりにも刺さりすぎて。
終盤、主人公の「悪魔のZ」をルシファーというところから明けの明星につなげていく流れが本当に圧巻だった。『湾岸MIDNIGHT』はそれぞれの章の中心的な立ち位置で主人公に絡む人たちが次のステージに進む(場合によっては思いっきり乗り回していたマシンから離れることもある)という形で幕が下りるけれど、それぞれにあんまり嫌な悲しさがなかったんですよね。と言っても逆に淡々としすぎているわけでもなく、不思議な納得感があり、ほんのりとした希望の予感と共に〆られる。それってなんでなんだろうなと思ったけど、それは主人公という「明けの明星」があって、それに多かれ少なかれ触れ合った後に来るのが「朝」だからなんだろうなと思った。だから、その「終わり」を寿ぐことができる。もちろん、その前段階として各キャラクタが「しっかり、やりきる」ことが必要なんだろうけれど。
そしてそれ(真夜中の首都高バトル)に思いっきりフォーカスしているからこそのタイトル(「MIDNIGHT」)なんだろうな。でもやはり本質は「明けない夜はない」ということなんでしょう。確かに作中でもほんのりとそういうこと(朝が来ると、深夜のバトルフィールドの空気が消えていく、ということ)は語られていたけれど、こんなに綺麗にタイトルが物語の在り方の要になっているなんて。いやはや、すげー作品だ……。
「しっかり、やりきる」とは書いたけれど、ここぞというところでアクセルを踏めない、という人のこともきちんと、見下すわけではなく、あまたある人生のバリエーションとして描いているのも良いなと思った。この作品、基本的に「肯定」なんですよね。流転して、その中で色々なものを背負ったり降ろしたり、乗っかったり降りたりしていく人生の肯定。でも、その中で響き合うものはきちんと惹かれ合っていくという運命の美しさ。公道の300km/hを肯定している時点で何でもありな気はするが、というのは置いておいて。
「やりたいこと」が良いか悪いかはひとまず措くとして、「やるなら、ちゃんとやろうヨ」という姿勢。だからといってなんでもOKやるならOK、みたいな令和の全肯定ムーヴに溢れているわけではなく、「そーゆう姿勢や心がけをホメるんじゃあなく‥ いい結果を出した それを正当に評価する」(Series 109 確信)のように、きちんと褒められるべきところが褒められる、といったような、あるべき形で報われる様子が描かれているのも、いいなと思った。「やさしくありたい」という心意気(この作品はおそらく主人公がこれの大部分を背負っていたんだと思う;ただし、無理をして、ではなく天性の才覚として)もものすごくよく分かるんだけど、「甘えてちゃダメじゃん」というのもズバッと見せてくれる。
自分もやっぱり、頑張りたいんだな、ということを再認識させられた。頑張った先に見える景色を見たい。そうして、同じ景色を見た人と、きちんと分かりあいたい。あ~~~~~~~~~~~~~頑張らないと。気がついたら仕事のメールをせっせと書いていました。自分にとってはこの作品そのものが「明けの明星」でした。とはいえ次の朝をもたらしてくれる作者が別にいるわけではないので、ここは自分で、頑張らないとですね。
余談
しばらくアメリカに住んでいたことがあって、フォードのマスタングに乗っていました。フリーウェイを200マイル/hでかっ飛ばすことはしなかったけれど、読んでいてふつふつと昂ぶるものがあるのもまた事実で……グーネットを覗いたりしています。まぁ、色々と今の生活では厳しいのでしょうけど、それにしても、それにしても……! という気分です。

違国日記
いこくにっき。なんで一発変換されないんだろう。
自称人間嫌いのコミュ障オタク、みんな槙生ちゃんになりたがっているんじゃないか。教室にテロリストがやってきたら……の亜種。もしも俺んところに血が繋がってはいるが基本的な生活に関してあんまり手はかからない、でもどこかで俺の先導を求めている親戚が転がり込んできたら……みたいな。ないですか。そうですか。『高杉さん家のおべんとう』の方がそう思いやすいかも。欲望の出処が違ってきそうだけど。
こう書き出してみてあらためて、やはり「都合がよいな」ということを思う。上の書き方だと槙生ちゃんポジションでの都合のよさだけど、それよりももう少し物語的な都合のよさ。絶妙、とも言う。繋がりはないことはない人のところに、きっかけがあって人がやってきて。ことばを持つ人と、ことばを持たない人の交流。
でも、その都合のよさを「都合がいいなあ!」と感じさせず、うま~~~~く物語の平仄が合っているように回して見せているのがこの作品なんじゃないかと思う。登場人物のみんながそれぞれに抱える「うまくいかなさ」が、できごとのきっかけとして上手に作用している。きがする。わかりあえてしまう人たちだけだと生まれないリズム。
読んでいると、自分の子どものことを思う。果たして自分は自分の子どもの「槙生ちゃん」になれるだろうか……。
なれない、よなあ。やはり親と子というのはやはり言葉を届けるには近すぎて、遠すぎる。(親から子への(、だけ?))影響力が大きすぎるから、行き交わされる情報の重みづけが難しそう。どんな関係よりも大きな双方向性がある一方で、絶対に覆せない一方向性も重なり合ってある。どこかで「お互い様」にはなりきれない(と書いて、はじめに書いた槙生ちゃん的都合の良さは、《叔母と姪》という、《友人》ほどの「まったくの対称的フラットな関係」でもないけれど《親子》ほどの頑強な一方向性もない、絶妙な(中途半端な?)関係であることにおおきく依っているなと思った。まったくのフラットな関係だったら、まずお話が動き出していなかった(コミュニケーションが生まれてなかった)かも、しれない。そこに《姉と妹》という、また別の非対称性が織り込まれているのもミソなんだろう;色々書きましたが、このお話を転がしていく上で絶妙な関係だよねということです)。
人間関係と親子関係というのは別物な気がする。ただ、その在り方のパターンというものは数多あるんだろうなとも思う。しあわせなものも、そうでないものも。
親を無条件に愛するのが子ども、という言説を目か耳にしたことがある。割合にそのとおりだろうと思う。世間一般に受け止められる「愛」というより、もう少し幅広いもの。「承認する」の方がちょうどよさそう(だいぶ呑気な見方に依っている自覚はあります)。でも、子どもの精神的成長に伴って、子から親を見て「なんだこいつ」と、無条件には受け入れられなくなる瞬間がやってくる(それはある種健全なことなんでしょう。イキモノ的に)。そうなったらどうするか。自分をしっかり持つと言ってしまうのは簡単だが、畢竟それは他人との相対的な距離感を掴んでいくということで。逆にこれが親だと難しい。そこそこのボリュームの方々にとって、親は半ば自分を構成するものでもあるだろうから、親へ向けていた否定がいつしか自分に向いていることに気付くというのもあるかもしれない(過言かもしれない)。
他人との付き合いならうまくいくかというとそれも難しい。結局のところ、他人との関係というのはつかず過ぎたり離れず過ぎたり、避けたりぶつかったりしながらやりこなしていって、そうしてしばらく1人で歩いていったところでいつの間にか親ともちょうどよく距離が取れている、というところまで来るんだろうな、と思った。宇宙まで出ていってきちんと地球の球体さを理解する、ような(喩えがうまくない)。
ふと、『トクサツガガガ』を思い出した。原作の方。あれも、いい作品だったな。
経験を積んで、親を自分から切り離されたいち個人と(いうことに)して眺める準備が整ったところで、さて、と目を向けてみたら親の居るはずの場所が空虚、というのは、もう、どうしようもない空虚だ。おそろしい作品だなと思う。朝氏のお父さんに至っては、思い返してみても空虚。鍛えがいのない、独り相撲感。置いていかれる、ということだな。まさに。残酷なことをする作品だ。「親を殺す」だけでも確かに残酷ではあるんだけど、その後の経験が活きてくるであろう「親との向き合い」フェーズが、ないんだから。でも、そもそもその「親が失くなること」がないと話は始まっていなかったわけで……。
永遠の命題だねぇ!
じゅのさんが「永遠の命題だねぇ!」というのが好き。6巻 p.27。物語の中で心に残ったセリフを書き残す、なんてことはめったにしないけれど、つい、してしまった。全然慣れない行動なので、仕事用のslackの自分宛ダイレクトメッセージに書いてある。
けど多分これは、じゅのさんの「永遠の命題だねぇ!」というセリフが好き、というよりは、「永遠の命題だねぇ!」と言ってくれる人がいる、という状況が気に入ったんだろうな。おそらく僕達は、永遠の命題というラベルのふさわしい苦しみとか、そのほかの感情とかをあれこれ抱えて生きている。けれど、それを永遠の命題だ! と言ってくれる人は、いつもいるわけではない。むしろ、ぼんやりとそういう感覚だけを引きずっている。そこで、言葉によってはっきりとした形を与えてくれる人がいる。そういうことが起こると、恵まれているな、と思う。
話を聞いてくれる相手がいること。その人が、自分には手のつけられないものたちを言葉でもって形にしてくれること。共感ではないかもしれないが、それはやはり、自分のこころのかたちをかたどってくれる。ああそうか、私は今こういう「きもち」だったんだなあ。みたいな。
甘えんじゃないよ。そんなこと、自分でやんな。そういうスタンスもあるんだと思う。でも、そういうスタンスを表出してくれる人がいる、ということも、それはそれできっといいこと。
そしてまた、この作品も、読者にとっては「きもちの在り方」を示してくれるものなんだと思う。形(作品)として、出来事を映し出す形で一方的に差し出されたものなので、自分にレディメイドなものではないが、スタンスのさまざまが映し出されることで、「自分は、ここかも」を得やすそう。そこに輪をかけて「自分でやんな」もまた含まれている。二重に手厚い。
数年前に読んだ時とセリフの響き方が違う、と友人が言っていた。響かなかったセリフが響くようになっていたそう。やはり数年の間にも経験したものはあり、受け手自身が変わっているからなんだろう。灯台だなあ、と思う。私が私としてあることに対しても少なからず貢献をしてくれる作品だけど、それに加え、数多ある移ろっていくものたちの中で、いつも同じところにあるから、私の居場所がわかる。私のいるところについて、教えてくれる作品。これは上述のように、完成形として差し出された「作品」だからできることでもある(それが、有為転変するものに比べていいとか悪いとかではない)。
そしてやっぱり言葉の力なんだ、と思う。自分はおそらく世間様の平均値よりも「ことば」が好きなものだから、どうしようもない断絶に橋をかけようとする試みである「ことば」を持つ・持とうとする・使う・使おうとする人の姿を、いいなあと思う。これは、「祈り」に近い。ことばを扱うことも、祈ることも、すること事態に本質的な価値があるというのが同じだ。
いい作品だなあと思う。
パリに咲くエトワール
見てきました。レイトショーで。
よかった。すごくよかった。あんなに話をまとめて終わらせられるんですね。大団円だ。
見ていてものすごく気持ちのいいお話だった。多分、人間の善性への信頼、というのが物語を組んでいく底にしっかりとあるからなんだろう。
主人公の振る舞いがどうにも利他的すぎて、これは人のために労力を惜しまなさ過ぎて自分自身は潰れてしまうやつなのかな、とほんのり考えていた。それ以前に、「師につく」ということがなされていない、なんだか好き勝手に絵を描いている姿が目につくだけで、絵を描くというのは所詮「ええとこのお嬢さんの趣味」の延長線なのかな(ただ、経済的に主導権を握れているわけではないので、主な要因は親の意思だよね、というのはあるが)。その上で、作中のどこかで本気度を問われてしまうのかな。みたいなメタな読みをほんのり抱えながら見ていた。また、バレエの子の最後の気付きが最大のカタルシスなのかと思った。
でも、そうじゃなかった。全部がその後の、主人公の「あの瞬間」のためのものだったんだ。「周りのみんなを活かす」という立ち位置のようで、巡り巡ってきちんと自分に戻ってきて大輪を咲かす。でっかいカタルシスだ。本当に最高だった。単に「人を助けて描くものを得た」という点に限らず、綺羅摺りの流用という技法的な面でも、きちんと主人公のそれまでの積み重ねが実ったんですよというのが分かるようになっていたのが輪をかけて本当によかった。確かに「やりたい!」で欧州に留学をさせてもらえているというのは、あまりにも恵まれた環境なんだろうと思う。その中で利他的に振り切って過ごしている姿は、そりゃあ悪いことではないけれど、それだけじゃあなぁ……と勝手に思っていた。でも、それを突き詰めたおかげで最後に大きな花が咲く。ある意味「私らしく」を通して成ったものだと思う。おとなぶった正論よりも、人間の善性にしっかりと価値が置かれているの、ものすごく希望だな……という気持ち。子どもに見せたい映画すぎる。
主人公が師につくことはなく、なんとなく自分だけで描いている姿がちょこちょこと見せられるだけ。わざわざパリまで来た意味? と思ったんだけど、よく考えてみたら作中当時は今と情報へのアクセス環境がぜんぜん違うから、欧州の絵画事情に触れられるだけ、要するに「いるだけ」でもものすごく意義があることだったんだね。ということを雨夜のシーンで再認識させられて、反省した。自分のやるべきことに向き合っていない描写なんじゃなくて、向き合った結果行き詰まってしまっていたんだね。
確かにスケッチは折に触れてちょこちょことしていたけれど……と思ったけれど、だからこそそれが基礎的な反復練習になっていたのかな。
また、この作品、「憎しみ」がなかった。厳しく当たる人がいても、それぞれに何らかの事情がある(力に任せた借金取りみたいな役どころもあったけれど、それも「憎しみ」に駆動されているわけではない)。オペラ座の先生(?)、「ロシア嫌い」みたいな感情が言及されていたとしても、じゃあロシア人に教わっていた子までもを拒絶していたのかと言うとそうではなく、それはそれとして、認めるところは認めて、ふさわしい助言を与えたりしている。「東洋人!」としか言わないレストランの人も、じゃあ主人公が嫌いなのか? というとそういうわけでもなさそうだった。心根が悪方向に振り切れた、「悪意」によって動く人がいない、という点、本当によかった。もちろんそういうキャラクタやそういう感情を使って描き出せるものもあるだろうとは思うけど、そういうのは自分の好みではなかっただろうから、少なくとも個人的にすごくよかった。(ここまで書いて、オペラ座のマチルダさんの取り巻きの子たちはどうかな―というところに思い至った。どうだろう。マチルダさんの言動に驚いて気まずそうにしていたあたり、あそこが彼女たちにも学ぶ契機になっていたと考えると、救いはあるのかも)。
いろいろな人生が交錯しているんだろうな、ということを、その「いろいろな」を語らずに見せているのが良かった。それはそれで描き甲斐もあるんだろうけど、それをあれこれと小出しに見せられたところで、ハンパなものになってしまいそう(商業作品としてあんまり現実的ではなさそう)。よくジャムを作ってくれるおばさんのご家族は? とか、後半、主人公と一緒に皿洗いとして働いていた他の子達の背景は? とか。もう、いろいろ。でも、いろいろな人生が交錯する中で、それぞれが知られたり知られなかったりするのも都会だけど……。でも、そういう掘ったら出てきそうな「深み」を、語らずも仄めかす絶妙なキャラクタの見せ方が、良いなあと思った。
キャラクター、みんな良かった。声優も、良かった。このへんはあんまりダラダラ書いていると永遠に終わらなさそうなので置いておきます。
画、きれいでしたね。空が良かった。特に。背景美術の美しさにハッとする、という機会が他の作品と比べてかなり多かったように思う。
取り急ぎ、このあたりで。また書くかもしれません。
アニメキャラにはトイレにうんこしに行ってほしい
scatologyについての具体的なお話ではありません。すみません。
渡部宏樹『ファンたちの市民社会 あなたの「欲望」を深める10章』(河出新書)を読みました。面白かった。
特に第5章(「『キモい』自分を生きよう」)を読む中で、自分と、3次元の生身のアイドル・芸能人の消費との相性の悪さを自覚し、そこから逆説的にアニメ・キャラクタの消費が自分には「合っている」なと思った。というのがこの記事の概要。
渡部は鳥羽和久の議論を引いて、まず「推す」ってどういうことよ、という話をしている。詳細は省くとして、つまるところ「推す」ことというのは情動的な主体性獲得の運動(下線部:p.115)らしい。言い換えればアイドルや芸能人という他者のイメージを「使用」することで自分の主体性を獲得する(ibid.)ということ。
あぁ、確かにこれは自分向きの活動じゃないわけだ、と腑に落ちた。渡部は「自覚してるならいいんじゃない」と書いているけれど、自覚があるかないかは大きい違いとして、それでも「他人」は「他人」じゃん、と思う。そしてその「他人」は結局「作り物」じゃん。そう思ってしまう。
生身のアイドルは、つくりもの。
結局そのキャラクタの中にある「その人自身」はわからない。これは別にアイドルや芸能人に対する疑念が強いからというわけではなく、人間そのものにそういう感情を抱いているといった方が適切。だって、わかんないじゃない。他人の腹の底なんて。
そういうことは、だいぶ前にnoteに書きました。以下の記事をどうぞ。
渡部は「アイドル」の歌詞を引いて、特に最後の最後の「これは絶対嘘じゃない/愛してる」という点において「嘘のない本物」としての愛(p.128)が勝つと述べるけれど、それだって「っていう歌詞だよ」でメタに全部ひっくり返っちゃう。
おそらくアイドルの中には本気な活動を本気でしている人もいるんだと思う。思うけど、それはきわめて漸近線がより漸近なだけ。「なんてね☆」で全部無しになる。ポイントは、結局他人の腹の中なんて分かりようもないということ。
生身の人間が自身をメディアに晒して他人から消費してもらおうとしている時点で異常なのに、なんでその異常さを無視できるんだろう。そりゃあ、絶対この瞬間のこの振る舞いは本心なんだろうな、という瞬間もある(スポーツ選手の涙というのはその極地のひとつだと思う。だからそういうシーンが尊ばれるんでしょう)。あるけれど、そういう「つい」出てきた人間性を喜んで消費しちゃうのってそれもそれで。いよいよ「キモ」くないか……?? 上掲の通り渡部は「自覚があるならいいじゃん」的に書いているけれど、自分には厳しい。あくまでもnot for meという話なので、それがいいという人はそのままご自由になすっていればいいとは思う(おそらくこの話の源流には自分の認知特性みたいなのが関わっているだろうから、理解はされても万人に共感されるわけではないだろうことは覚悟の上です)。
アイドルはトイレに行かないとか言うじゃないですか。「アイドル」として消費したいならそれでもいいかもしれないけれど、そんなわけないじゃん。生き物ですもの。腕の毛も生えるし、目やにも出るよ。そういう無理(現実との不整合)を抱えて、その上でさらに生身の人間性を覗こうとする試みが無駄に思えて本当にダメ。その人自身を消費しようよ。……って言いたいけど、「その人自身」って見えないじゃん、わかんないじゃん(上で書いた話の繰り返し)。
一方で2次元のアニメ・キャラクター。これはある意味で「そのまま」じゃないですか。そのまま生きているものを写し取ったもの。アニメとは書いたけど漫画でもいい。ともかく、創作されたキャラクターがその生を全うしているところを見せられている。そこに、さらに底はない。はず(だから、作中作とされるマクロスシリーズは、なんとも複雑な感情で受け止めている(というかどう受け止めたもんかな、という思いがずっとある)し、その約束が破られ(ようとす)る瞬間は根源的に怖い。スタァライトの7話の最後とか)。
作品の情報だけでは分からないところがあっても、それは、こっちで勝手に補完すればいい。だってそこは「(正解が)あるのに見えない」んじゃなくて、「決まってない」んだから。自分はちょこちょこと二次創作小説を書いたりしているけど、それもその間隙を埋めようとしている試み、という要素が強い。
虚構のキャラクターはいい。だって、いないんだもん。寂しい話だけど、ある意味でホッとする。ものすごく生きていてほしいし、そうあるものと思って「接する」けれど、それは「いない」ことが大前提にある。仮想の存在は、消費のサンドバック。いくらでも使える。どれだけ存在感を高めていったところで「いない」んだから。
いないんだから、消費に伴う罪悪感もない。そもそも生身の人間を「消費」するのって、いいの……? という感情がある。大前提として、存在に向き合って消費をしたい。けれど、生身の人間には無理。不可能だし、個人的な倫理として。実際に存在している一個人を、自分の欲に任せて消費してしまうのってものすごく危険なことじゃない? と思ってしまう。上の方では「キモい」とも書いたけど、怖いだけかもしれない。この辺を深堀りしていくと、自分に向き合わざるを得なくなる。一旦それは措いておいて。
そういう、ある意味「遊び」的なものであるということは前提として、虚構のキャラクタたちには思いっきり生きていてほしい。腕の毛が生えていてもいい。トイレにうんこしに行ってほしい。外国語学習に興味があるのかないのか、外国語の単語をどうやって覚えようとするのか考えたい。向き合う対象として、どこまでも「いる」に近いところにいてほしい。
解題的な。「星見純那のヤキソバ・ラプソディー in NYC」
ドタバタしてたらとりあえず「ラプソディー」って言っちゃうの、オタクの悪い癖だと思う。そして「ラプソディー」=「狂想曲」ではないことを学んだ。「ラプソディー」は「狂詩曲」だそう。この情報、いかにもオタクの豆知識って雰囲気が漂っている。
少女☆歌劇 レヴュースタァライトの二次創作小説を書きました。タイトルは「星見純那のヤキソバ・ラプソディー in NYC」です。元は「(前略)ヤキソバ・ウォーズ(後略)」にしていたけれど、「別に戦うわけではないよな……」ということを考えて「ウォーズ」は外すことになり。代わりに据え付けられたのが「ラプソディー」。ちなみに自分の「ラプソディー」の思い出は「葛飾ラプソディー」。遅れて「ボヘミアン・ラプソディー」がくる。その間に「青春狂騒曲」が来るはずだったんだけど、上述の通り撤回することに。
今回の小説がどういうお話かというと、我らが星見純那さんが留学先のニューヨークで知り合ったアルゼンチン人の友人(とそのルームメイトのブラジル人)に、なんとも日本の「焼きそば」らしからぬ「ヤキソバ」を振る舞われ、「私が本当の『焼きそば』を教えてあげないと……!!!」と謎の義務感に駆られてニューヨークを駆け回り焼きそばの材料を集める、果たして焼きそばは完成するのかな?!というハートフル・ストーリー。
こう書くとなんだか美味しんぼ的な雰囲気も漂うけれど、別にそこまでグルメバトルしているわけではない。そしてそこまでドラマチックに盛り上がるわけでもなく、絶妙に「あるある」っぽいシチュエーションをやや自由に書いた、そういう感じ。書いておいてなんだけど、なんともはや盛り上がりがない。自分が書くもの、みんなそうかも(って言うけど別にそんなに色々書いているわけではない)。そして急に終わる。
発端は劇場版スタァライトのスタッフロールにて。星見純那さんアメリカ行き?! というところに驚き、そこから、「海外(アメリカ)ぐらしならこういう楽しいことが起こりそうだよね~~~」という妄想が膨らんだ。そういう流れ。
twitter見返してみたら、劇場版見終わってすぐそういうことを書いていた。おまけに映画の後で頭がいっぱいいっぱいになっていたせいで、各所を巡る神楽ひかりをニューヨークに越してきていると錯覚していた模様。
星見純那と神楽ひかりのNYCぐらし、雑な「ジャパンってこうでしょ!」に対して、全力で突っかかっていく星見純那と、長いロンドンぐらしでそういう見当違いに慣れっこになっている神楽ひかりの温度差が見たい
— yasちゃん (@kagetora1130) 2023年11月7日
トンチキな日本料理(NYCではもはやそういうのもあんまりなさそうだけど)に「でもこれだっておいしいからいいんじゃない?」って言う神楽ひかりと、「そう、だけど……でもそうじゃなくって……!!!」と正しさとおいしさの間で折り合いがつけきれない星見純那 あると思います
— yasちゃん (@kagetora1130) 2023年11月7日
「純那のためにヤキソバを作ったよ!」と現地で出会った友人が振る舞ってくれたものが蕎麦と牛肉と野菜を醤油で炒めた謎アジアンヌードルで、「私が本物の焼きそばを食べさせてあげないと!」と謎の使命感に駆られてNYCの日本スーパーを駆け回る星見純那 これもあると思う
— yasちゃん (@kagetora1130) 2023年11月8日
割とそのまんまなことを呟いていた。構想2年以上だ……。海外慣れした神楽ひかりが「そういうもんでしょ」というスタンスで横にいる図はそれはそれで見てみたい。
自分自身海外ぐらしは多少縁があったけれど(参考1、参考2)、別に、同じような目に遭ったわけではない。ニューヨークに住んだこともなければ(行ったことはあるけど)、友人に謎日本料理を振る舞われたこともない。ただ、「『焼きそば』……か……」的なものを食べ(させられ)たことはあった。下の写真は、2015年・ロシア南部のカルムイク共和国という国の首都、エリスタ(参考)にて。まさに、醤油で炒めた蕎麦。特別おいしい! というわけでもないけど、おいしくない! と言うほどでもなかった。そんな記憶(10年も前なので、あいまいなところはある。けど、取り立てて強い記憶として残ってもいないので、無難な印象だったんだろうと思う)。

上の写真のイメージを頭において、それをもっと"ゴージャス"な感じにしたのが、星見純那さんが食べさせられたヤキソバ。実際、作ってみたらおいしいかもしれない。お金はかかりそうだけど。肉とか。詳細は作品をどうぞ。
正直なところ、星見純那でなくても良かったのではないか? とは書いていて思わなくもなかった。「日本人が海外でバタバタする様子」なら別の作品の別のキャラでもよく、なんならオリジナルでもよいのでは、と。とはいえ、ニューヨークに留学するという設定の都合を差し引いても、出会った事柄に真正面から向き合ってバタバタする、というのはやはり彼女らしさなのかもしれない。そう思って、よしとした。
「『正しく』やること」を拭い去りきれないところ、「ここで私が教えてあげなければ、彼女たちが今後どういう目に遭うかわからない……」など真面目に先読みをしすぎて勝手に気合を入れすぎてしまうところ、楽しい予定で頭をいっぱいにせず、なんだかんだ授業や課題を真面目(すぎるほど)にこなして、そのせいで色々手一杯になりそうになる(でもなんだかんだなんとかなる/する)ところ、など。かしこいキャラクタなので、基本的な英語のコミュニケーションはつつがなく進んでいるだろうな、というところは都合がよかった。お話の中で色々な言語が挟まってくるのは完全に作者の好みなんだけど、そういうところもこの人なら自然に混ぜ込めそうで、よかった。実際韓国語はどのくらいできるもんなんでしょうね。何気にハングルは読めそう。または何かしら触れる機会があって「やっぱりちゃんと勉強しておくべきだった!」みたいな悔しがりはしそう。この人は、こういう「自分の好奇心にちゃんと従っておけばよかった」みたいなプチ後悔がちょこちょこありそうだなと思った。けど、どうだろうな。そういうところもちゃんと、ある程度は(そしてその「ある程度」の基準はだいぶ高めに)拾い上げているかもしれない。
名言というのも、なかなか話を始めたりオチをつけたりするのにちょうどいい。「そういう意味合いの言葉ではなくない?」みたいなのは大目に見てほしい。
上述の通り、ずっと星見純那を追っているから彼女の話を書いた、というわけでもなく、なんとなく境遇が共感できそうだから、くらいの動機で始まった本作。とはいえ、真面目な人が自らの真面目さに翻弄されている、という姿はなんか好きだな……と思った。彼女がそれだけ世界に誠実に向き合っているということだから。彼女の報われた姿も見たい。
おまけ。小説の描写を突っ込んでNano Banana(GoogleのAI、Geminiの画像生成ツール)に描いてもらった、ロミーナ・ジオヴァーナのキッチン兼ダイニングのイメージ。結構悪くなくてびっくり。もうすこ~~~しだけ部屋の横幅を狭くしてもいい気がしたんだけど、そのお願いはなぜか通らなかった。Nano Bananaってそこはかとないスタァライト感がある気がする。右下のウォーターマーク含めて。わかります?

おまけ2。「ロミーナ」、「ジオヴァーナ」という名前は、それぞれ適当なウェブサイトで見かけたアルゼンチン・ブラジルの女の子の人気の(定番の)名前の上から9位のものです(もうリンクまで失くしてしまった)。書き進めてしばらくして、シリーズ内にそういう名前の学校(ロマーナ)があったな……ということに思いが至った。
おまけ3。「モチ・アイスクリーム」はあります。少なくともカリフォルニアでは人気。「モチ」といえば「モチ・アイスクリーム」という人もいるくらい。

でどころ:Caramel Apple Mochi - Trader Joe's
https://www.traderjoes.com/home/products/pdp/caramel-apple-mochi-075010
オタクなんだろうか
ということを時々考える。主語は「私は」。
自認は「オタク」だけど果たして本当にそうか? という視点で自分をメタに見つめる、ということを時々する。そしてその中で、前提としての「オタク」の定義ってなんなんだろうな、ということを考える、と表現する方が実態に近い。
更新しました。1/16の午前10時以前に読んだものとは少し変わっています。
しばらく前に「あなたの『推し』って何ですか?」という質問をされたときに、うまく答えられなかった。ちょうど、今日の夜は初めて映画館でスタァライトを観るぞ! という日だったので「それはそうと『スタァライト』面白いすよ」という話をしてお茶を濁したけれど、自分の「推しているもの」としてこの作品に熨斗を付けられるかというとあんまりそういう気はしない。いや、まあ、濃い目に関わってはいるけど。
「今の時代、オタクは元気な消費者だ」という意見を見た。我が身を振り返って「消費」をしているかと考えると、あんまり肯んぜられない。せいぜいkindleでマンガを買うことと、動画配信サービス(及びその中のチャンネル)に毎月お金を払っていることくらい。度重なる引っ越しのせいなのか、中途半端な虚無主義(物理的なモノを所有することに対して感じる虚しさが強め)のせいなのかはわからないけれど、あんまり「グッズを買うぞ!!!」という気概は湧かない。前は、ちょこちょこ小さいフィギュアを買ったりしていたけれど。

もちろん、コンテンツを産んでくれた方々に対して形に見える「売り上げ」として感謝か愛か、何らかの感情を示すことの方がよいとは思う。「次」に繋がるし。できるだけマンガは出たらすぐ買う、みたいに、できることはやっている。だけど自分は大元にある作品やその中のキャラクタそのものに向き合うことの重要性の比重が高めで、物語そのもの以外の要素にはあまり価値を見出していない。ちょっと嘘。心のどこかで「価値を見出したらマジで際限がつかなくなるだろうな」とビビっているところもある。っぽい。ただ、なんとなくそういう、こだわりだしてしまうであろう自分への抑制が働いているところに、ここのところのあの手この手でIPへの愛着を(経済活動が絡む形で)煽り立ててくるような風潮に対する反発心が合わさって、周辺的なモノの入手に強くブレーキが掛かっているように思う。特典コンプのために何回も映画館に行こう! みたいなやつ。
物理的なグッズに対しては「それだけじゃん」という思いもある。ブロックで作ったシンプルな「くるま」を以て幼児が無限に世界を生成できるのとはワケが違い、手元のグッズをきっかけに世界が無限に広がるとも思えない。モノが増えても際限ないだけじゃん。それよりは、元のコンテンツに向き合って頭の中で色々考えるほうが(少なくとも自分にとっては)豊かで楽しいじゃん? と思ってしまう。相対的な価値観のきわめて主観的な比重の話なので、モノを集めることに意味を見出せている人の気持ちを否定したいつもりはない。こんなことを書きながら、最近人生初のアクスタを買ったし。
話を戻して自分はオタクなのか、ということを思う。コンテンツへの向き合い方は上述の通り原理主義的なものだけど、おそらく平均よりは深めだと思う(もちろん作品による)。ただ、「推し活」をしていますか?! と問われると、多分世間一般的な「推し活」ではなさそう。この「推し活」という表現、先のツイートにおける「元気な消費」とリンクしている感覚があるけれど、自分が自分に対する「オタクらしさ」的なものとはレイヤーが違うように感じる。
(旧時代的な(?))オタクであること、いわゆるオタクがやるような活動(ってなんだよ定義付けてみろよ、というのはおいておいて)をすることって内発的な動機・衝動に突き動かされているものであって、それが外から愛着を刺激されてそれに応じる形で行われることを「推し活」と呼ばれると、それってなんか、”純粋な”オタク活動ではないよね、という気持ちになる(ちゃんとダブルクォーテーションを使っていますからね)。結局自分の(活動の)あり方を外部から規定されちゃあダメよ、自分で手綱を握っていけよ、ということなんだろうかな。自分の心の赴くままに「推し活」をする、という、看板が掛け変わっただけというものもあるだろうし。
作品(/キャラクタ)と私、という2者の関係を、内発的な動機に突き動かされて深めていける/いけてしまうのが自分のスタイルで、「ほらほら、こういうグッズもあるよ、集めませんか、誕生日祝いをしませんか、アクスタ持ち運ぶならこれをどうぞ」と第三者の意思が介在して(いることを嗅ぎ取って)しまうと、その邪魔者感に言いようもない違和感を抱えてしまうのかな、と思う。後者が近年の、社会活動として認識され得る「推し活ブーム」ですよね。
ただ、まあ、仕方ないと言うかなるべくしてなった流れかなとは思う。マンガもゲームも面白いし、それで盛り上がっている人がいたら、他の人だって気になって広がりますよね。そこに商機を見出すのは当然だし、否定されることではない、むしろ(経済的/商業的に/めぐりめぐって業界が活気づくという点でオタク的に)いいことである気がする。ただし、そうして動きはじめた第三者の存在感は、きちんと意識しておいたほうがいいように思う。否定はしないが、意識をすること。自分がどこでどのように踊っているかくらいは把握しておいたほうがいい。
付け加えれば、どことなく「推し活をしている私」を肯定しよう、みたいな雰囲気がここの所濃くなってきているようにも思える。自己肯定感は大事ですが。「対象物」に「私」の心が持っていかれるだけの話ではなく、どこか第三者的な視点を通じて「推し活」と「私」が成り立っているような感じが、(笑っちゃうような物言いだけど)「”純粋”じゃないじゃん!」みたいになるのかな。
なんだかすごい、旧時代のオタクが何か言ってるな、って感じになってきた。
以上を踏まえて自分は第三者の介在をあんまり望んでおらず、なんとなれば、いわゆる「公式」の存在すら脇においておきたいと考えているフシがある。ようだ。自分が向き合っているのはIPではなくて、作品の中のキャラクターであり、そのキャラクタの振る舞いによって何が起こっているかということだから……。もちろん「公式」がいないと何にもならないので、感謝すべきところではあるんだけど。それは分かっている。それでも、自分はたとえそれが虚構であっても(「わかってるわいそんなことは!」と言いながら)、キャラクタその人を知りたいし、考えたい。むしろこれは虚構だからこそできる気がする。なんてーか……生の人間にやっちゃ、ダメでしょ、こんなこと。そういう勢いで向き合う。もう少し穿ってみると、生の人間は情報量が多すぎるから、都合よくそのへんが捨象された(限界の存在する)虚構のキャラクタに向き合って、また、その限界を超えたところ(捨象されているので何をどうしても自由なあたり)では自由にさせてもらうのがちょうどいいと感じている。その結果出力されたのが「99期生って英語できるの?」とか「99期生の買う車」だったんだろうと思う。
しばし前にやったCosmic Baton Girl コメットさん☆の感想まとめというのはその極地だったんだろうなと思う。作品にしっかり向き合うことができた。すごく楽しかった。まだ物足りないところがあるので、もっといろいろ考えたい。そうした「向き合いがいのある作品を心の内に持っている」という点においてオタクだと言えそう。かなぁ。
オタクが何らかに詳しいというのも、詳しいことそのものが本質なのではなくて、向き合うことそのものを重ねていったら得るものもそりゃたくさんあるよね、という話なんだと思う。この点において、知りたい、というその欲を突つくことができるためにスピンオフコミックスが出たり担当声優によるネットラジオがあったり何度も映画館に行ってコンプリートできる特典小冊子がご用意されたりするんでしょうね。そりゃあ、まつわるものはなんでも参照しないといけない/したい! ということになり、ビジネスになりえてしまうんだと思う。いわゆる個人的・オタク的な作品とのサシの向き合いと、商業的な愛着刺激は重なり合って(ただ、動機のレイヤーは異なって)存在していると言える。自分は商業的な思惑を強く感じてしまって、そこで得られる情報がいかに重要なものであろうとも、基本的には避けてしまっている(「嫌儲」てのもこのへんの感覚と地続きなんだろうなと思う)。別に、「本編だけ」とはいえ本編の情報が嘘になるわけでもないし。不要に意固地に生きている自覚はある。
いきなり終わります。いつか、続きを書くかもしれません。
十二国記(6巻:丕緒の鳥)
小説でなんでこんな気持ちにさせられるんだろうな…………………………………………………………
というのをこれまでも思っていたが、案の定、今回も。今回は特にそうだったかもしれない。
小説で起こったこと、描かれる登場人物の心持ちに共感したり感情が移入したりすること、それがさらにまた自分に跳ね返って色々と思わされるというところまでは、他の作品を読んでいても起こり得ることかもしれない。
が、ことこの作品に至っては、自分の持っている現実の現実感(変な表現)が再度この作品の中に跳ね返っていき、良いものも悪いものもひっくるめて、抱いた様々な生々しい感情がこの作品の世界の中に彩りを与えてしまう。そういう感じがある。
それはやはり、この世界ならではの虚構が精巧に組まれているからだろうし、それが自分の中ですっかり形を持ってしまったからなんだろう。
王の覇道が揺らげば、天をして「コイツやっぱダメだわ」となれば、国が傾き、それは異常気象や魔獣の出現などといった実害として現れる。そういう理を、これまでのお話の中で嫌というほど分からされてしまっている。だからこそ、「青条の蘭」や「風信」で描き出される自然風物の有り様は、ただの情景描写ではなくそのまま世界の乱れ・復興に繋がるものだと読み手の我々は充分すぎるほどに分かってしまっているし、「落照の獄」における主人公の、治安の底が抜けることへの危惧もまた不思議な(ありもしないはずの)肌感覚とともに理解ができてしまう。
これは、ここまで(1巻から5巻まで)を読んできた読者の中に、作中世界の理をしっかり根付かせてきたからこそ可能なことなんだろう。
「風信」でみられた女狩り。これも、あぁ、あれのことだ、と分かってしまう。別に、はっきりと「このことですよ!」という丁寧な橋渡しはない(普段の情景描写が微に入り細にわたるだけに、なおさらのこと印象深い)。ないのに、充分にわかる。わかるが、これまでの物語の中ではマクロな・大きな流れとして語られていた出来事でしかない、どこか「教科書で読んだ歴史」のようなものだったのが、ミクロな1人の目を通して描かれるというのが、第6巻の特徴なんだと思う。「自分ごと」として捉えられるサイズになってあらためてその残虐さが感じられる。この、マクロとミクロの往還が、仮想世界としてしか知り得ないはずの自分の中で起こること。これは本当にものすごいことで、やはり一読者として、作者の掌の上で転がされまくりだなあ……とでっかい溜め息をつくことになる。
短編にして短編にあらず。これらもやはり大きな大きな『十二国記』という流れの中に在るお話たちでした。
……という。ごめんなさい、正直、ナメてました。どうやら短編集らしいぞ、ということで「延王と延麒のスピンオフコメディーとかか~~~???」なんて考えていました。
まさか、これまでとは。
とはいえ、身を以て思い知らされるのが絶望だけではなく、希望もそうだというのは救いどころですね。「玄英宮」という文字が踊ったときの安心感。「女狩り」が終わって新王が立ったらしいぞ、となったときの安心感。それは単に希望のある書き方によるというだけでなく、我々が実際によく「知っている」から。ただ、この世界について考えてみると、それぞれのエピソードもまた「大変な局面だけどみんなが頑張ったからなんとかなった」というより、「頑張れる、善の人びとがいるのもまた天命の思し召しによるもの」と捉える方が十二国記っぽい気がする。
虚構の中の現実感。「ない」ことが、「ある」。
小説なのに、というよりも小説でしかできないことなんでしょうね。だからといって、どんな小説でも可能かと言うと、そんなことはない。十二国記、おそろしい作品です……。